2010年04月19日
天才彫刻家・高橋英吉さん生誕百周年父娘展に思う
高橋英吉さんは明治44年(1911年)4月13日、石巻に生まれた。父は大きな缶詰工場経営者で5男の英吉さんは、旧制石巻中学校から東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科木彫部に進んだ。研究科在学中の昭和11年(1936年)、文部省美術展(文展)に「少女像」を出品して初入選、才能を早くも見せた。海辺育ちだけに海への思いが強く研究科を中退、南氷洋の捕鯨母船に作業員見習として半年間乗り組み、海の男を観察、スケッチした。その成果が「海を主題とする3部作」である。いずれも2メートルを超す木彫で第1作の「黒潮閑日」は13年の第2回文展で入選、翌14年の第3回文展で2作目の「潮音」が特選になった。3作目の「漁夫像」は第3回文展で無監査となり、若き彫刻家として注目された。
太平洋戦争が始まった16年、文展審査員に推挙されたが、妻と誕生間もない娘を残して応召、17年11月2日、ソロモン群島ガタルカナル島で日本軍戦死者T万7千余の1人として散華した。31歳という短い人生だった。
英吉さんは神奈川県三崎の網元の娘・澄江さんと恋愛結婚、出征したとき1人娘の幸子さんは生後100日。ガ島に向かう輸送船の中で英吉さんが流木に針でこつこつ彫った「不動明王像」が澄江さんに送られてきた。高さ11・9センチ、幅3・4センチという小さな木彫は最後の作品である。船中で英吉さんは、どんな思いで彫ったのだろうか。
今、澄江さんは91歳、幸子さんは68歳になった。幸子さんは木版画家として活躍、木版画教室を開くなどして母と神奈川県逗子市に住んでいる。
私は昭和55年(1980年)4月、河北新報石巻支局長として赴任し、姉妹紙である地域新聞「石巻かほく」の創刊に携わった。高橋英吉さんという素晴らしい彫刻家が石巻出身であることは知っていたが、当時、石巻図書館長だった橋本晶さんから英吉さんのことについて詳しく聞かされた。橋本さんは画家を目指して上京、東京で英吉さんと起居を共にしたので、弟のような関係だった。「潮音像」は戦後、行方不明になったが、NHKテレビが「青春の遺作 高橋英吉の人と作品」を53年に全国放映したのが機縁となって鳥取県内で見つかった。「潮音」探しをずっと続けてきた英吉さんのいとこ・稲井善次郎さん(石巻魚糧工業社長・石巻商工会議所副会頭)が所蔵者と話し合いして、55年にようやく里帰りした。「黒潮閑日」は東京で、「漁夫像」は八戸市に所蔵されており、3部作がそろって石巻図書館に展示されたのは戦後30年も経ってからだった。
さらに早稲田大学を出て東京で芸術活動をしていた石島恒夫さんが33年(1958年)、酒店を継ぐため帰郷した。石島さんが中心になって文化芸術活動を展開、石巻芸術協会結成へと結実して事務局長になった。
57年(1982年)、彫刻家として国内外で有名な佐藤忠良先生が石巻河北ビルで講演した際、私は英吉さんについて聞いてみた。「高橋さんは1年先輩で、あの方は天才です。私は長く生きて粘土をこねたりして来たものですから、この指を見て下さい。ごつごつして太いでしょう。今、生きていたら物凄い作品を見せてくれたでしょう。本当に惜しい方を失いました」とおっしゃったことが思い出される。
そのころ、「潮音像」のブロンズ像をガタルカナル島の平和公園に鎮魂碑として建立しようという市民運動が盛り上がり、石巻市、ライオンズクラブ、市民らで2千万円近い募金が集まった。56年(1981年)10月、澄江さん、幸子さん母子ら関係者がガ島に行き、「潮音ブロンズ像」の除幕式を行った。ブロンズ像を3体作り、1体は大門崎公園突端に太平洋を越えたガ島の潮音像と向き合うように建てた。1体は石巻市体育館入口のそばにある。
石巻市制施行50周年を記念して石島恒夫さんの2男・正博さんが作曲した「高橋英吉氏に捧げるオーケストラのためのレクエイム・潮音」が58年(1983年)7月、石巻市民会館で東京シティ・フィルによって演奏され、大きな感動を与えた。
こうした一連の動きが英吉さんの生涯と作品を映画化することに発展していった。石島恒夫さん、いとこの稲井三治さん(元石巻市議会議長)ら有志が「映画・潮音を創る会」を結成。青銅プロダクション(小島義史代表)が制作を担当した。1千万円の募金目標に対して小学生からお年寄りまで約900人、企業など約170団体から1,700万円が寄せられ、58年(1983年)12月、ドキュメンタリー映画「潮音・ある愛のかたみ」(75分)の試写会が石巻市民会館で開かれた。英吉さん役は江藤潤、妻の澄江さん役は友里千賀子で、橋本晶さん、稲井善次郎さん、詩人の宗左近さんら英吉さんとつながりのある人たちも出演した。まさに市民の手づくりの映画と言えよう。文部省選定映画として宮城県内、東北、全国各地で上映された。
私は4年間の石巻勤務を終えて59年(1984年)4月、河北新報編集局報道部長になった。その年の夏、サントリー文化財団から当社に「地域文化賞」にふさわしい団体を推挙してほしい、という依頼状があり、私に回ってきた。石巻勤務時代、映画づくりに参画し、紙面でも報道してきたので、高橋英吉さんを軸とする石巻市民の熱い思いから湧き出た文化活動は「地域文化賞」に最適と考えた。映画制作を中心とした推挙文を書いて送ったが、事務局担当者から「映画づくり以外にももっと広がりがあるようなので、再検討しましょう」ということになった。
仙台で担当者とお会いし、橋本さんらと打ち合わせを行い「石巻 文化をはぐくむ港町づくり」会(代表・稲井善次郎)という団体名にして、翌年の「昭和60年度(1985年)第7回サントリー地域文化賞」に再推挙、晴れて受賞した。「市民あげての多彩な文化活動によるまちづくり」が高く評価されたのである。同年7月19日、大阪で授賞式があった。推挙文を書いた私も出席したかったが、仕事でかなわなかった。賞金は百万円で、それを基金にして「青春の遺作 高橋英吉 人と作品」(A4判216ページ)が翌年7月、出版された。この中に私が丸善出版の「学燈」に書いた「映画づくりに燃えた港町」という拙文も掲載されている。
61年夏、日和山・つつじ園で当時の平塚真治郎市長はじめ石巻各界の皆さんが出席して受賞祝賀会が開かれた。一力一夫河北新報社主会長が推挙者として挨拶した。58年(1983年)、市制50周年を祝って河北新報社が日和山公園に、北上川開削者の川村孫兵衛の銅像を寄贈したことにも触れ、江戸時代から連綿として続く石巻の文化活動を讃えた。
私にも指名があった。「新聞記者は渡り鳥のようなもので、いろんなことを書いてよその土地へ行ってしまうと批判的に言われる。しかし、私は地方新聞の記者であり、地元の人間以上にその地域を愛するという気持ちで仕事をしている。喜怒哀楽を共にする、というのが地方新聞記者の役目と思っている。今度の受賞は、お世話になった石巻の皆さんにいくらかの恩返しができたのではないかと思います」と述べた。
今年4月13日、英吉さんの誕生日に生誕100周年記念特別展「永遠(とわ)の想い〜英吉・幸子父娘(おやこ)展」が石巻文化センターで開幕した。「海を主題とする3部作・潮音、黒潮閑日、漁夫像」の木彫、石巻高所蔵の「聖観音立像」などと併せて幸子さんの木版画も展示された。
13日夜、石巻グランドホテルで「生誕100年の夕べ」が開かれ、幸子さんのほか英吉さんと縁が深い人たちが70人ほど出席した。身内の稲井理善さん(華道・古流庵家会家元)ら4人が発起人だったが、毛利コレクション等博物館建設を推進する会副会長の私が阿部宏会長の代理として開会の挨拶を仰せつかった。
「私は今、ラジオ石巻の社長をしている。わが国一流の彫刻家佐藤忠良さんも高橋英吉さんを天才彫刻家と言っている。生誕100周年をお祝いして特別展を開催したが、31歳で戦死しないでもっと活躍してほしかった。稲井善次郎さん、橋本晶さん、石島恒夫さんは故人となったが、地域文化にかける3人の熱意のお陰で潮音像など海の男・3部作が石巻に存在していると思う。あのころの熱気をもう1度取り戻したい。私もお手伝いする」と述べた。
石巻文化センターは60年(1985年)、英吉さんの作品、毛利コレクションの1部などを展示、ホールも併設してオープンした。石巻市に寄贈される毛利コレクションの特別展示室を作るために大改修して、平成24年(2012年)春には新しい文化センターがお目見えする。
「生誕100年の夕べ」で石巻芸術協会長の西条充敏さんが「石巻高校に所蔵展示されている英吉さんの「聖観音立像」(174センチ)を新文化センターがオープンした際に海の男・3部作と一緒に展示して多くの人たちに参観させたい」と述べた。私もそれを望む。「聖観音立像」は英吉さんの31歳の短い生涯のなかで、6年もかけて制作した作品で未完成のまま戦地に赴いた。
詩人の宗左近さんは「数多くの仏像彫刻に接してきたが、宗教を感じさせる仏像彫刻は芸術ではなく、そこには宗教はない。高橋さんの聖観音立像に自分は打たれた。聖は光である。観る者に感動を引き起こし、そして行動を引き起こさせる。芸術作品として完成している」と「祈りの画集」に書いている。
「聖観音立像」は、今回の特別展に石巻高校から借用して展示されている。最終日は5月9日である。石巻高校同窓会のお考えもあるので、今後の展開を見守りたい。
posted by 社長 at 13:25
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2009年03月21日
良かったね、お2人の卒業。石巻は元気だ!
私はラジオ石巻の3代目社長になったのは2002年5月末。04年から3年間、「石巻 元気を出そうよ」という1時間番組を毎月2回放送しました。石巻地域には、いいものが一杯ある、それを引き出し合ってもっと元気な街にしようという考えでした。毎回、いろんな分野の方々2〜4人にスタジオに来ていただき、私が司会しながら語り合ってもらいました。
第14回目の04年11月は、NPO法人「障害児と共に歩む」が運営する「心の相談室・つながりの家」で活動している小林厚子さん、伊勢里加さんにお話をお聞きしました。お2人は障害児のお母さんです。「つながりの家」は元市長公舎を利用しており、和室の古い建物です。理事長は小児科の先生でボランティアの応援も受けています。
前宮城県知事の浅野史郎さんが、障害者も地域の中で生活する、学校も地域の学校に通学するというノーマライゼーションを主張し、実践し始めたころでした。
そして今年3月、小林さんの二男和樹さん(23)が石巻専修大学経営学部を卒業しました。和樹さんはダウン症というハンディがありますが、番組や「つながりの家」でお会いし、お母さんの強い愛情、そしてわが子だけではなく同じ境遇の人たちへの熱い思いに感服しました。「石巻かほく」の記事で小林さんは「この日が来るなんて夢のよう。先生や友人が支えてくれたおかげです」と言っていますが、「つながりの家」は開所して10年になります。心の相談室に支えられた人たちは沢山います。障害者だけでなく心が病んでい青年、大人の相談にものっているそうです。
伊勢さんの二女知那子さん(13)は石巻市湊小学校を3月、卒業しました。番組でお話を聞いたのは2年生の時でした。脳などに重度の障害があるため、医療的な介助を受けながら通学していました。宮城県は03年から湊小を「障害児就学支援調査研究事業」のモデル3校の1校に指定しました。伊勢さんは「市教育委員会から養護学校に通学させたらと言われたが、モデル校になったので普通学級に進むことができた。補助の先生もいる。みんなで支えて下さっている」と言っていましたが、登下校など大変な様子でした。しかし、6年間、いろんなことを乗り越えて知那子さんは卒業しました。先生、クラスの仲間、地域の人たちに有形、無形の”力”をもたらしたと思います。
「石巻 元気を出そうよ」を放送した時、私も頑張ろうと思ったのですが、お2人の卒業の新聞記事を読み、「お母さん良かったね」とお祝いすると共に、これからもラジオ石巻を通して「石巻の元気づくり」にお手伝いしていこうと再認識した次第です。
第14回目の04年11月は、NPO法人「障害児と共に歩む」が運営する「心の相談室・つながりの家」で活動している小林厚子さん、伊勢里加さんにお話をお聞きしました。お2人は障害児のお母さんです。「つながりの家」は元市長公舎を利用しており、和室の古い建物です。理事長は小児科の先生でボランティアの応援も受けています。
前宮城県知事の浅野史郎さんが、障害者も地域の中で生活する、学校も地域の学校に通学するというノーマライゼーションを主張し、実践し始めたころでした。
そして今年3月、小林さんの二男和樹さん(23)が石巻専修大学経営学部を卒業しました。和樹さんはダウン症というハンディがありますが、番組や「つながりの家」でお会いし、お母さんの強い愛情、そしてわが子だけではなく同じ境遇の人たちへの熱い思いに感服しました。「石巻かほく」の記事で小林さんは「この日が来るなんて夢のよう。先生や友人が支えてくれたおかげです」と言っていますが、「つながりの家」は開所して10年になります。心の相談室に支えられた人たちは沢山います。障害者だけでなく心が病んでい青年、大人の相談にものっているそうです。
伊勢さんの二女知那子さん(13)は石巻市湊小学校を3月、卒業しました。番組でお話を聞いたのは2年生の時でした。脳などに重度の障害があるため、医療的な介助を受けながら通学していました。宮城県は03年から湊小を「障害児就学支援調査研究事業」のモデル3校の1校に指定しました。伊勢さんは「市教育委員会から養護学校に通学させたらと言われたが、モデル校になったので普通学級に進むことができた。補助の先生もいる。みんなで支えて下さっている」と言っていましたが、登下校など大変な様子でした。しかし、6年間、いろんなことを乗り越えて知那子さんは卒業しました。先生、クラスの仲間、地域の人たちに有形、無形の”力”をもたらしたと思います。
「石巻 元気を出そうよ」を放送した時、私も頑張ろうと思ったのですが、お2人の卒業の新聞記事を読み、「お母さん良かったね」とお祝いすると共に、これからもラジオ石巻を通して「石巻の元気づくり」にお手伝いしていこうと再認識した次第です。
posted by 社長 at 22:47
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2008年12月21日
郷土史研究で河北文化賞の紫桃正隆先生逝く
旧河北町出身の紫桃正隆(しとうまさたか)先生が平成20年12月8日、心臓病のため87歳で亡くなりました。12日、石巻市・白寿殿で葬儀・告別式が行われ、私が最初に弔辞を述べさせていただきました。
紫桃先生は盛岡高等農林学校を卒業、高校で生物を教える傍ら、仙台藩主伊達政宗の人間性に迫る一方、伊達家の陰に隠れて目立たなかった大崎地方の有力大名・葛西家の盛衰に注目するなど、中世東北地方の埋もれた歴史に光を当てました。40冊を超える著書がありますが、第1作の「葛西氏と山内首藤一族」は1965年(昭和40年)に石巻市のタン書房から出版されました。私はその第1作を河北新報紙面で「高校教師が郷土史を出版」と紹介しました。紫桃先生の親類の方が記者クラブのキャップをしており、私は当時、教育・大学関係を担当していましたので、記事を書いたわけです。それだけでしたら、大した話ではないのですが、長い間、マスコミの仕事をして、いろいろな方とお付き合いしていると、ご縁というか、繋がりという“見えない糸で結ばれているなあ”と強く感じ入ってしまうのです。
紫桃先生は「民間人として郷土史研究に尽くした功績」で1995年度(平成7年)河北文化賞を受賞しましたが、第1作を記事にした30年後、私は河北新報役員として審査委員の1人として先生の郷土に懸ける熱い思いを他の委員に紹介したことが思い出されます。
「石巻かほく」時代も深いお付き合いをいただきました。私は「ラジオ石巻」に関わって6年を越えてしまいましたが、来年も紫桃先生に負けない”熱い思い”を抱いて「元気な石巻づくり」に地域ラジオを通してお手伝いしたいと思っています。
紫桃先生は盛岡高等農林学校を卒業、高校で生物を教える傍ら、仙台藩主伊達政宗の人間性に迫る一方、伊達家の陰に隠れて目立たなかった大崎地方の有力大名・葛西家の盛衰に注目するなど、中世東北地方の埋もれた歴史に光を当てました。40冊を超える著書がありますが、第1作の「葛西氏と山内首藤一族」は1965年(昭和40年)に石巻市のタン書房から出版されました。私はその第1作を河北新報紙面で「高校教師が郷土史を出版」と紹介しました。紫桃先生の親類の方が記者クラブのキャップをしており、私は当時、教育・大学関係を担当していましたので、記事を書いたわけです。それだけでしたら、大した話ではないのですが、長い間、マスコミの仕事をして、いろいろな方とお付き合いしていると、ご縁というか、繋がりという“見えない糸で結ばれているなあ”と強く感じ入ってしまうのです。
紫桃先生は「民間人として郷土史研究に尽くした功績」で1995年度(平成7年)河北文化賞を受賞しましたが、第1作を記事にした30年後、私は河北新報役員として審査委員の1人として先生の郷土に懸ける熱い思いを他の委員に紹介したことが思い出されます。
「石巻かほく」時代も深いお付き合いをいただきました。私は「ラジオ石巻」に関わって6年を越えてしまいましたが、来年も紫桃先生に負けない”熱い思い”を抱いて「元気な石巻づくり」に地域ラジオを通してお手伝いしたいと思っています。
posted by 社長 at 16:49
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2008年11月14日
女川町民弁論大会を放送します
11月3日の「文化に日」に開かれた第43回女川町民弁論大会は、300人を超す聴衆が出席して大盛況でした。審査委員長をした私を含めて7人の審査委員は、小学生5人、中学生7人、一般5人の弁論内容に大きな感銘を受けました。その内容を多くの方々に聞いてもらいたいのでラジオ石巻は15日(土)、22日(土)午前11時から1部と2部に分けて45分間放送します。1人5分前後の弁論ですので第1部は小学生5人、第2部は入賞の中学生3人、一般2人です。
中学生の最優秀賞は女川2中3年の須田海歩(かほ)さん。須田さんは昨年も最優秀賞になりました。「ばぁちゃん」の演題で、福井県にいるおばぁちゃんを訪ねた時、認知症なっているのに大好きなソースとんかつを作ってもらい、そこから現代社会が直面している高齢化問題を取り上げ、自分は将来、医師になって医療に携わりたい、述べました。
優秀賞は2中3年の木村美月(みづき)さん、演題は「人との出会い」。4中3年の阿部遥(はるか)さん、演題は「人権とは」。
一般は会場賞がコバルトーレ女川副キャプテンの桧垣篤典さん、「数年後の女川」。町を挙げて取り組んでいるサッカーチームと女川の姿を関連づけて熱を込めて語りました。37年間、審査委員長を務めた鈴木寿男さんを偲ぶ鈴木寿男賞は3小教諭の菅井秀生(しゅうせい)さん、「可能性を引き出すために」。
43年間、1つの町が石巻高校同窓生で作る女川鰐稜(がくりょう)会、若手経済人が中心の金曜会という民間組織が主催して継続していること、しかも内容がいずれも素晴らしいということに、私は大きな感動を受け、大人たちが教えられるものが多くありました。ぜひ、fm76・4メガヘルツにダイヤルを合わせて下さい。
中学生の最優秀賞は女川2中3年の須田海歩(かほ)さん。須田さんは昨年も最優秀賞になりました。「ばぁちゃん」の演題で、福井県にいるおばぁちゃんを訪ねた時、認知症なっているのに大好きなソースとんかつを作ってもらい、そこから現代社会が直面している高齢化問題を取り上げ、自分は将来、医師になって医療に携わりたい、述べました。
優秀賞は2中3年の木村美月(みづき)さん、演題は「人との出会い」。4中3年の阿部遥(はるか)さん、演題は「人権とは」。
一般は会場賞がコバルトーレ女川副キャプテンの桧垣篤典さん、「数年後の女川」。町を挙げて取り組んでいるサッカーチームと女川の姿を関連づけて熱を込めて語りました。37年間、審査委員長を務めた鈴木寿男さんを偲ぶ鈴木寿男賞は3小教諭の菅井秀生(しゅうせい)さん、「可能性を引き出すために」。
43年間、1つの町が石巻高校同窓生で作る女川鰐稜(がくりょう)会、若手経済人が中心の金曜会という民間組織が主催して継続していること、しかも内容がいずれも素晴らしいということに、私は大きな感動を受け、大人たちが教えられるものが多くありました。ぜひ、fm76・4メガヘルツにダイヤルを合わせて下さい。
posted by 社長 at 15:58
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2008年11月03日
ブログを再開します
しばらく私のブログを休んでいました。パソコンを新しいものにしましたが、設定の仕方が分からず、そのままにしていました。昨年11月3日、宮城県女川町の第42回町民弁論大会の審査委員長をしたので、その内容を報告しましたが、今日11月3日夜、43回大会があり、再度、審査委員長をしますので、ブログを再開することにしました。
地域FMラジオは限られたエリア内の放送局ですが、地域のいろいろな課題に出会います。ラジオ石巻は「むすぶ・つなぐ・地域の輪」が目指すスローガンです。石巻地域の出来事なども報告していきたいと思っています。
地域FMラジオは限られたエリア内の放送局ですが、地域のいろいろな課題に出会います。ラジオ石巻は「むすぶ・つなぐ・地域の輪」が目指すスローガンです。石巻地域の出来事なども報告していきたいと思っています。
posted by 社長 at 12:10
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2008年04月21日
石巻名誉市民・和賀井敏夫さん
石巻市合併3周年記念式典が開かれた4月20日、順天堂大名誉教授の和賀井敏夫さんが新市最初の名誉市民に選ばれた。和賀井さんは大正13年9月、当時の石巻町本町で誕生、83歳。父上は外科医院を開いており、小学校6年まで石巻で育った。旧制仙台二中、旧制二高、新潟医科大学を卒業して、順天堂医科大学外科教室で研究生活に入った。
和賀井さんは40年間の歳月を掛け、現在、世界の医療機関で使用されている超音波診断法(エコー)を初めて開発し、CT、MRI実用化の第一人者。以前、NHKの人気番組「プロジェクト]」で、和賀井さんの研究に取り組む姿が紹介されたが、式典会場では7分程度に圧縮して上映した。
受賞の挨拶で和賀井さんは「超音波で人間の体内を調べられないかと挑戦した。研究者をはじめ周りからは大変苦労したね、と言われたが、私は困難を困難と感じなかった。少し鈍いのかな。2年前に日本学士院賞を受けたが、ふるさと石巻からいただいた今日の名誉市民が一番うれしい。小学6年で石巻を離れたので、皆さんとのお付き合いはあまりないが、エコーなどでは付き合いは深いですね」とユーモアを交えながら述べられた。
石巻の今後については「海外に行くと港町が賑わっている。海と接した地域が見直されている。石巻は最初からウォターフロント、シーサイド、リバーサイドだ。これを活用してほしい」と提言された。
石巻には素晴らしい業績を上げた方々が沢山いる。郷土に誇りを持つにはそうした人物を知ることが大切と思う。
式典では「おらほの大賞(大将)」としてスポーツ、文化芸術で全国優勝などした25人、2団体が表彰された。受賞者を代表して第61回文化庁芸術賞を受賞した落語家の桂文生さんが「競争相手がいるから表彰された。これを忘れないことです」と述べたが、相手に思いやる心が大切と言いたかったのだろう。
和賀井さんは40年間の歳月を掛け、現在、世界の医療機関で使用されている超音波診断法(エコー)を初めて開発し、CT、MRI実用化の第一人者。以前、NHKの人気番組「プロジェクト]」で、和賀井さんの研究に取り組む姿が紹介されたが、式典会場では7分程度に圧縮して上映した。
受賞の挨拶で和賀井さんは「超音波で人間の体内を調べられないかと挑戦した。研究者をはじめ周りからは大変苦労したね、と言われたが、私は困難を困難と感じなかった。少し鈍いのかな。2年前に日本学士院賞を受けたが、ふるさと石巻からいただいた今日の名誉市民が一番うれしい。小学6年で石巻を離れたので、皆さんとのお付き合いはあまりないが、エコーなどでは付き合いは深いですね」とユーモアを交えながら述べられた。
石巻の今後については「海外に行くと港町が賑わっている。海と接した地域が見直されている。石巻は最初からウォターフロント、シーサイド、リバーサイドだ。これを活用してほしい」と提言された。
石巻には素晴らしい業績を上げた方々が沢山いる。郷土に誇りを持つにはそうした人物を知ることが大切と思う。
式典では「おらほの大賞(大将)」としてスポーツ、文化芸術で全国優勝などした25人、2団体が表彰された。受賞者を代表して第61回文化庁芸術賞を受賞した落語家の桂文生さんが「競争相手がいるから表彰された。これを忘れないことです」と述べたが、相手に思いやる心が大切と言いたかったのだろう。
posted by 社長 at 20:03
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2008年04月16日
フランク安田の偉業
石巻市出身のフランク安田(本名・恭輔)は「イヌイットのモーゼ」と言われた人だ。今年は没後50年ということから、ふるさとの偉人を思い返そうといろんな行事が行われている。フランク安田が命がけで築き上げたアラスカ・ビーバー村から小中学生、教師ら13人が4月T5日、石巻市を訪れ、恩人の生地の人たちと交流した。
新聞、テレビなどで報道されたが、ラジオ石巻はイオン石巻ショッピングセンター1周年祭のイベントの1つとして、同センター内で「アラスカの星・フランク安田没後50周年記念パネル展」を主催展示している。5月18日まで展示しているので、ぜひ見てほしい。
15日は安田の出身地、石巻市湊中学校の全校生が、イオンの招待で映画「アラスカ物語」を鑑賞した。この映画はは作家・新田次郎がフランク安田の生きざまに感激して書き下ろした小説「アラスカ物語」を、昭和52年(1977年)東宝が映画化したもので、北大路欣也が主演した。
私も一緒に鑑賞した。30年前の映画なので、現代の中学生達はどう感じたのだろうか。人種偏見、氷の中の苦闘、金鉱探し、イヌイット(このころはエスキモーと言っていた)の人たちを救おうと、安住の地を求めてインディアンとの交渉など安田の前半の姿を描いた映画。重苦しい内容だったが、中学生たちは、時折、驚きにも似た声を上げてじっと鑑賞していた。何人かに感想を聞いた。「すごい石巻人がいた」「誇りに思う」「初めて知った」などと言っていた。
私は昭和55年(1980年)河北新報石巻支局長として石巻に来た。当時、石巻図書館長で郷土史家の橋本晶さん(故人)から、新田次郎が来石した際、フランク安田の取材の案内や資料探しの手伝いをしたことをよく聞かされた。小説「アラスカ物語」を読み、素晴らしい人が石巻にいることに感銘した。
そのフランク安田の業績を今、石巻の人たちに伝えるお手伝いをしていることにうれしさを感じている。
新聞、テレビなどで報道されたが、ラジオ石巻はイオン石巻ショッピングセンター1周年祭のイベントの1つとして、同センター内で「アラスカの星・フランク安田没後50周年記念パネル展」を主催展示している。5月18日まで展示しているので、ぜひ見てほしい。
15日は安田の出身地、石巻市湊中学校の全校生が、イオンの招待で映画「アラスカ物語」を鑑賞した。この映画はは作家・新田次郎がフランク安田の生きざまに感激して書き下ろした小説「アラスカ物語」を、昭和52年(1977年)東宝が映画化したもので、北大路欣也が主演した。
私も一緒に鑑賞した。30年前の映画なので、現代の中学生達はどう感じたのだろうか。人種偏見、氷の中の苦闘、金鉱探し、イヌイット(このころはエスキモーと言っていた)の人たちを救おうと、安住の地を求めてインディアンとの交渉など安田の前半の姿を描いた映画。重苦しい内容だったが、中学生たちは、時折、驚きにも似た声を上げてじっと鑑賞していた。何人かに感想を聞いた。「すごい石巻人がいた」「誇りに思う」「初めて知った」などと言っていた。
私は昭和55年(1980年)河北新報石巻支局長として石巻に来た。当時、石巻図書館長で郷土史家の橋本晶さん(故人)から、新田次郎が来石した際、フランク安田の取材の案内や資料探しの手伝いをしたことをよく聞かされた。小説「アラスカ物語」を読み、素晴らしい人が石巻にいることに感銘した。
そのフランク安田の業績を今、石巻の人たちに伝えるお手伝いをしていることにうれしさを感じている。
posted by 社長 at 22:54
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2008年04月03日
平成20年度スタート
新年度がスタートしました。しばらくブログを休んでしまいましたが、これからはできるだけ発信します。
イオン石巻ショッピングセンターが昨年3月末にオープンしてから1年たちました。イオンは石巻店で3月から5月にかけて6つの1周年謝恩企画を行っています。ラジオ石巻は開店以来、毎週土曜、日曜日昼に店内サテライトスタジオから地域に目を向けた放送をしてきました。
イオンは「次世代のこども達にふるさと石巻の誇りを伝えたい」という趣旨で1周年謝恩企画を計画しましたので、ラジオ石巻は賛同して6つの企画を主催させていただくことにしました。
3月22日から4月20日まで石巻日日新聞、石巻かほくの写真展を開催していますが、4月14日から5月18日まで「アラスカの星・フランク安田没後50周年記念展」「初めて世界一周した日本人ー石巻若宮丸漂流民の足跡」の2つのパネル展を行います。そのほか「旧河南町の宝ヶ峯縄文記念館展」「石巻で働くお父さん、お母さんの写真展」「いしのまき百景写真コンテスト」を次々開催します。
ラジオ石巻は「むすぶ・つなぐ・地域の輪」をスローガンに掲げています。6つの企画は各方面のご協力を得ていますが、このイベントを通して地域の絆がさらに深まっていくことを願っています。
イオン石巻ショッピングセンターが昨年3月末にオープンしてから1年たちました。イオンは石巻店で3月から5月にかけて6つの1周年謝恩企画を行っています。ラジオ石巻は開店以来、毎週土曜、日曜日昼に店内サテライトスタジオから地域に目を向けた放送をしてきました。
イオンは「次世代のこども達にふるさと石巻の誇りを伝えたい」という趣旨で1周年謝恩企画を計画しましたので、ラジオ石巻は賛同して6つの企画を主催させていただくことにしました。
3月22日から4月20日まで石巻日日新聞、石巻かほくの写真展を開催していますが、4月14日から5月18日まで「アラスカの星・フランク安田没後50周年記念展」「初めて世界一周した日本人ー石巻若宮丸漂流民の足跡」の2つのパネル展を行います。そのほか「旧河南町の宝ヶ峯縄文記念館展」「石巻で働くお父さん、お母さんの写真展」「いしのまき百景写真コンテスト」を次々開催します。
ラジオ石巻は「むすぶ・つなぐ・地域の輪」をスローガンに掲げています。6つの企画は各方面のご協力を得ていますが、このイベントを通して地域の絆がさらに深まっていくことを願っています。
posted by 社長 at 20:57
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2008年01月08日
明けましておめでとうございます。
ラジオ石巻は今年は開局11周年を迎えました。元日、2日、3日の3日間、イオン石巻ショッピングセンターサテライトスタジオから「あけまし、いしのまき」のタイトルで初売り、初詣で、イベントなど石巻地域のお正月風景を生中継放送をしました。放送の合間に石巻、東松島両市長、石巻選出の国会議員、県議会議員、石巻商工会議所会頭ら14人の新春トーク、ねずみ年生まれの方々の「私の夢」などを放送しました。
10周年を記念して配備した移動無線中継車「らじいし号」も出動して初詣で、イベントなどを中継して好評を得ました。
お正月3が日に生中継放送するのは初めてのことで、社員が総出勤、フリーアナ、サポーターズクラブ員の応援もあって、事前の計画を無事に果たすことができました。
「むすぶ・つなぐ・地域の輪」が私たちのスローガンです。親しまれ、信頼されるラジオ石巻を目指して今年も頑張ります。一層のご指導、応援をお願いします。
10周年を記念して配備した移動無線中継車「らじいし号」も出動して初詣で、イベントなどを中継して好評を得ました。
お正月3が日に生中継放送するのは初めてのことで、社員が総出勤、フリーアナ、サポーターズクラブ員の応援もあって、事前の計画を無事に果たすことができました。
「むすぶ・つなぐ・地域の輪」が私たちのスローガンです。親しまれ、信頼されるラジオ石巻を目指して今年も頑張ります。一層のご指導、応援をお願いします。
posted by 社長 at 16:44
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2007年12月03日
水押暁工兵隊、ギャラクシー賞2次審査へ
8月7日、9月17日の私のブログで書きましたが、ラジオ石巻開局10周年記念番組として放送したドキュメンタリー「今明かされる水押暁工兵隊」「続・水押暁工兵隊」についてご報告します。
いずれも石巻地域の皆さんに大きな反響を呼び、初めて取り組んだドキュメンタリー番組が、どうにか成功したのだと喜び合いました。
全国的な評価はどうだろうかと、放送界の全国コンテスト「ギャラクシー賞」ラジオ部門の報道・ドキュメンタリー部門に応募してみました。17点が応募して、1次審査で10点が残りました。当社の作品は10点の中に入りましたが、2次審査までで3次審査(5点)には進めませんでした。
11月21日には「石巻日和野球倶楽部の軌跡」という特別番組を放送しました。日和倶楽部は1914年(大正3年)、「石巻野球界の父」と言われる故・毛利理惣治さんが創った社会人野球チーム。日本では「函館オーシャン」に次いで2番目。戦後の1945年(昭和20年)10月、旧制石巻中校庭で進駐軍チームと日米野球大会をしたエピソードなど歴史の証言者の声を織り交ぜながらのラジオ放送は野球ファンに喜ばれました。
鈴木常務放送局長の企画、脚本による番組でしたが、今後も歴史に残る地域話題をドキュメンタリー化する番組をお届けするつもりです。
いずれも石巻地域の皆さんに大きな反響を呼び、初めて取り組んだドキュメンタリー番組が、どうにか成功したのだと喜び合いました。
全国的な評価はどうだろうかと、放送界の全国コンテスト「ギャラクシー賞」ラジオ部門の報道・ドキュメンタリー部門に応募してみました。17点が応募して、1次審査で10点が残りました。当社の作品は10点の中に入りましたが、2次審査までで3次審査(5点)には進めませんでした。
11月21日には「石巻日和野球倶楽部の軌跡」という特別番組を放送しました。日和倶楽部は1914年(大正3年)、「石巻野球界の父」と言われる故・毛利理惣治さんが創った社会人野球チーム。日本では「函館オーシャン」に次いで2番目。戦後の1945年(昭和20年)10月、旧制石巻中校庭で進駐軍チームと日米野球大会をしたエピソードなど歴史の証言者の声を織り交ぜながらのラジオ放送は野球ファンに喜ばれました。
鈴木常務放送局長の企画、脚本による番組でしたが、今後も歴史に残る地域話題をドキュメンタリー化する番組をお届けするつもりです。
posted by 社長 at 17:27
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